興福寺について

略史1

興福寺の前身

 南都七大寺の1つとして隆盛した興福寺は、中臣鎌足(藤原鎌足)の夫人の鏡大王によって建てられた山背国・山階陶原(やましろのくに・やましなすえはら)の「山階寺」を起源とし、その後は藤原氏の氏寺として年月を重ねてきた。

 中臣鎌足は推古天皇22年(614)に大和国高市郡藤原で出生した。父は中臣御食子(みけこ)、母は大伴夫人と伝える。中臣氏は祭祀を司ることを家職とし、鎌足はその任を継承する立場にあったと考えられている。しかし、その鎌足が皇極天皇4年(645)、中大兄皇子(後の天智天皇)や蘇我倉山田石川麻呂らと共に蘇我本宗家を打倒する乙巳の変を起こし、軽皇子(後の孝徳天皇)を擁立して大化改新の原動力となった。中大兄皇子と鎌足の親密な関係は終生持続し、鎌足は内臣として種々の実務に携ったと考えられる。

 天智天皇8年(669)、鎌足が重い病に伏した時、夫人の鏡大王は夫の病平癒を祈って仏殿建立を発願した。当初は鎌足の許しを得られなかったが、後に夫人の願いが叶えられた。その仏殿には、鎌足が蘇我氏打倒に際して発願し、その後に造立した釈迦三尊像と四天王像が安置され、地名にちなんで「山階寺」と称されたと伝えられている。興福寺の前身・起源とされており、この寺名は鎌足を尊崇する意味において、興福寺の別称として使われてきた。

 鎌足は天智天皇8年10月16日にその一生を終えた。天皇はその前日に大織冠と内大臣の位を授けられ、「藤原」の姓を与えられた。ここに藤原氏が成立する。その後、「壬申の乱」が起こり、672年に天武朝が始まった。都は近江から飛鳥に戻り、鎌足ゆかりの山階寺も飛鳥の地に移った。その場所は大和国高市郡厩坂(うまやさか)とされ、この地名をとって「厩坂寺」と称したことが伝わっている。

大織冠画像(不比等・鎌足・貞慧)

藤原不比等

金堂鎮壇具

 藤原鎌足には貞慧(じょうえ)と不比等(ふひと)という子息がいた。貞慧は学問を好む聡明な人物であったといわれ、出家してから入唐したが、帰国後に惜しくも夭逝した。一方、不比等は鎌足没年の時まだ11歳であった。彼は成長するにつれて、持統朝に頭角を現し、文武朝では刑部親王を助けて「大宝律令」の撰定に主導的な役割を果たすことになる。

 不比等には、夫人の加茂朝臣比売(かものあそみひめ)との間に宮子という子女がいた。彼は宮子を文武天皇の夫人とし、大宝元年(701)に首皇子(後の聖武天皇)が誕生。さらに、不比等と継室の県犬養橘宿禰三千代(あがたいぬかいのたちばなのすくねみちよ)との間には、首皇子と同年に安宿媛(あすかべひめ。後の光明皇后)が出生した。

 文武天皇は慶雲4年(707)に遷都の意を表し、和銅元年(708)、元明天皇は遷都の詔を発する。この年、大納言であった藤原不比等は右大臣に任命され、平城遷都は不比等の政権下で実施されることになった。不比等は50歳という老域に達していたが、政府の重鎮として最も充実した時期でもあった。

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