興福寺について

略史3

興福寺の仏教

 興福寺は法相教学の寺院として法灯を護持してきた。その根本教義が「唯識」にあるので、古くは唯識衆(宗)、あるいは法相唯識を宣揚した唐の基(後の慈恩大師)の名をとって、慈恩宗・慈恩教とも呼ばれた。

 法相唯識の教義は、5世紀頃のインドで活躍した無著(むじゃく)・世親(せしん)という唯識学派の僧侶によって大成された。そして、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)がインドから請来したサンスクリット経典は、玄奘や弟子たちによって漢訳されたが、慈恩大師は、もっぱら唯識経典の訳出、そして論疏の著述を精力的に行い、法相教学の流布に努めた。多くの著書を持つことから「百本の疏主」「百本の論師」と称された。そして唯識を学問として体系化したことにより、法相宗の祖として尊崇されてきた。

 その後、法相宗第二祖・第三祖と続く淄州大師慧沼(ししゅうだいし・えしょう)、濮陽大師智周(ぼくようだいし・ちしゅう)をはじめとした中国の学僧によって唯識教学の研究が進み、その果実が入唐僧によって日本に伝えられた。具体的には、孝徳朝の道昭、斉明朝の智通、文武朝の智鳳、元正朝の玄昉が挙げられる。中でも玄昉は、濮陽大師智周を師として在唐18年という長期間にわたって留学し、帰国後は聖武天皇から僧正に任ぜられ、興福寺で法相教学の興隆に大きな影響を与えたと伝えられている。

絹本著色慈恩大師像

 さて、興福寺の代表的な法会に維摩会(ゆいまえ)があり、これに御斎会(ごさいえ)・最勝会(さいしょうえ)を加えて三会(または南京三会)と称される。この三会の講師になるには、維摩会の研学竪義(りゅうぎ)を修めなければならない。この竪義に至るまでには方広会・法華会・慈恩会の竪義遂行が義務づけられた。これを「三得業(さんとくごう)」と称される。

 こうした伝統的な法会の中で「慈恩会」が現在も重きをなしている。これは宗祖である慈恩大師の偉業を称えると共に、法灯護持の念を顕示するものとして厳修され続けてきた。慈恩会は興福寺別当であった空晴(こうじょう)の発願によって天暦5年(951)に始まり、当初は庚申講(こうしんこう)と称されたが、後に慈恩会と称されるようになったとされる。現在では、毎年11月13日(宗祖正忌日)に、会場を興福寺と薬師寺が隔年交代しながら厳修している。法相宗の僧侶としての登竜門として竪義を執行する時もあり、現在の法相宗の最重要法会として位置づけられている。

平安時代の興福寺

南円堂(春日社寺曼荼羅図部分)

 奈良時代後期にほぼ完成した興福寺の伽藍は、弘仁4年(813)、当時藤原氏の実権を掌握した北家の藤原冬嗣(ふゆつぐ)が南円堂を創建した。中心伽藍はこの仏殿の建立をもって完成し、その壮麗な大伽藍は官寺と比較しても遜色のない寺観を呈したのであった。平安時代の興福寺は藤原氏の勢力増大に伴い、その庇護によってますます発展した。

 神護景雲2年(768)、藤原氏によって創始された春日社は、同じく藤原氏の氏寺である興福寺と次第に神仏習合の関係を築き上げる。興福寺は「春日明神は法相擁護の神」と唱え、天暦元年(974)に社頭での読経が始まり、本地垂迹思想が進むにつれて、興福寺は春日社との一体を主張するに至った。そして、保延元年(1135)に春日若宮を創設し、以来、興福寺による春日社支配が行なわれ、江戸末期まで神仏習合の信仰形態が持続した。

 こうした興福寺と春日社との関係は、春日社の神威をかざしての神木動座・入洛強訴という手段に使われ、「山階道理」の言葉が生まれるほど朝廷・廟堂を悩ませた。例えば、寛治7年(1093)の神木動座は、近江守・高階為家に対するもので、近江の春日社領の神人が凌打された報復として為家の流罪を強要し、土佐国に配流させた。このような神木動座・入洛はおよそ70回にも及んだが、こうした行動が後の平重衡による南都焼き討ちを招いたともいわれている。

興福寺の繁栄と罹災

 興福寺は藤原氏と共に隆盛して寺の規模はより一層拡充された。寺僧の住居である子院が寺中・寺外に建てられ、その数は増大していった。この子院の中で格が生じ、公卿の子弟の入寺によって「院家」が成立して貴族化の色調を強めた。さらに皇族・摂関家から入寺した者が門跡となった。門跡は一乗院と大乗院で、一乗院は天禄元年(970)に定昭によって開設され、大乗院は応徳4年(1087)に隆禅が開いた。これが貴種相承となって江戸末期まで伝承された。

 興福寺はますます栄え、南都寺院勢力の代表的存在となっていった。しかし、その反面、たびたびの罹災と復興を繰り返したのも興福寺の歴史であるといえる。

 興福寺は元慶2年(878)に最初の回禄を経験し、以後、延長3年(925)、寛仁元年(1017)、永承元年(1046)・同4年、康平3年(1060)、嘉保3年(1096)と立て続けに大小の火災にあったが、なかでも、最大規模として記録されるのが治承4年(1180)12月28日の大火である。これは平清盛が子の重衡に南都進攻を下知し、南下した軍勢と南都勢の合戦から起こったもので、興福寺や東大寺が炎上した。特に興福寺が全山焼亡に等しいまでに延焼したことは、九条兼実の『玉葉』に詳しい。

現在のご拝観について
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