興福寺について

略史2

興福寺の創建

 飛鳥・藤原京からの遷都は各寺院の移動でもあった。藤原氏の氏寺である厩坂寺も平城京に移された。興福寺の縁起には、和銅3年(あるいは和銅年間)に遷都し、不比等が春日の勝地に造営して興福寺と名付けたと語られており、このことから厩坂寺の移建は、平城遷都の計画と平行して考えられていたといえる。

 一方、興福寺の創建が現在の地でいつ始められたかは明確ではない。和銅3年(710)はあくまで遷都の年であり、同年に興福寺の伽藍が完成したわけではない。不比等は遷都の様子を見定めながら、氏寺の移建に取りかかったと考えられている。

天皇家・藤原氏・橘氏関係系図

 さらに、興福寺の寺地である左京三条七坊に及ぶ平城京の条坊整備が遅れたこともあって、興福寺の造営開始も遅れたと考えられている。和銅7年(714)に興福寺が供養されたとする史料があるが、この頃に金堂がようやく完成に近い姿であったと推測される。金堂には、釈迦丈六仏像と脇侍菩薩4躯(2躯の十一面観音像、薬王・薬上両菩薩像)、四天王像などが安置されたと伝えられている。

 不比等は養老4年(720)8月に薨去した。この年の10月に「造興福寺仏殿司」が設置され、円堂(北円堂)が創建された。この円堂には、元明太上天皇と元正天皇が不比等の慰霊のために発願し、長屋王に命じて建立されたという。こうした官司による私寺の造営は異例であり、このことからも不比等の偉大さが認識できる。円堂は不比等の1周忌に当る養老5年8月3日に荘厳が完了した。須弥壇には本尊弥勒仏・脇侍菩薩2躯・羅漢像2躯・四天王像が安置された。そして、橘三千代も夫の不比等のために一具の弥勒浄土変像を造らしめて金堂に安置した。

聖武天皇と光明皇后

 神亀元年(724)、聖武天皇が即位し、長屋王が右大臣から左大臣に昇格した。同3年、天皇は元正太上天皇の病気平癒を祈念して東金堂を創建。丈六の薬師如来像を本尊として、脇侍菩薩像2躯が安置され、さらに、涅槃像・純銀弥勒仏像・金銅阿弥陀三尊像・弥勒三尊像・維摩像・文殊像・観音像・虚空蔵像・梵天・帝釈天像・四天王像・金剛密迹・正了知神像・羅睺羅像・天女像などが安置され、堂背面には、新羅伝来と伝えられる釈迦三尊像が奉安されていたという。東金堂の須弥壇には、水波紋の瑠璃塼が敷き詰められていたと考えられ、創建当初の華麗な荘厳がうかがえる。

 不比等亡き後は長屋王が皇族勢力の雄として存在感を示したが、神亀6年(729)2月、讒訴(ざんそ)によって自経させられた。この年の8月に「天平」と改元され、光明子は従来の伝統を破って初の臣下出身の皇后となった。

 天平2年(730)、光明皇后は五重塔の建立を発願し、その年の暮れに完成したと伝えられている。塔は1年足らずという驚異的な早さで建立されたが、安置仏の造立は少し遅れ、天平宝字年間に全て安置されたと考えられている。塔の初層には東方薬師・南方釈迦・西方阿弥陀・北方弥勒の各浄土変像など、多数の諸仏が安置されたという。

 当時の藤原氏は、不比等の長男の武智麻呂(むちまろ。後の南家祖)が大納言に昇進し、次男の房前(ふささき。後の北家祖)は中務卿、三男の宇合(うまかい。後の式家祖)と四男の麻呂(まろ。後の京家祖)はそれぞれ参議に列して、中央の要職を占めていた。興福寺の造営は、こうした藤原氏一族の強い権力の下に進捗した。

 光明皇后の生母、橘三千代は天平5年(733)1月にこの世を去る。皇后は母の菩提を弔うために、東金堂に対面する西方に西金堂を建立することを発願する。この造営は皇后宮職が関与し、延べ5万5千人の人員と、2千貫文以上の費用を使い、20石9斗1升という大量の漆を使用して安置仏の造立等が行われ、母の1周忌に合わせて完成した。西金堂には釈迦三尊像をはじめ、羅睺羅像・梵天・帝釈天像・四天王像、そして現在も残る乾漆八部衆像・十大弟子像などの諸像が安置された。

伽藍造営完成

阿修羅像

 西金堂の建立によって伽藍が徐々に整ってきたが、南大門・中門・回廊などの伽藍の中央部分も一部完成したか、あるいは施工にとりかかっていたと考えられている。その他、講堂・食堂・僧房などの建立年次も定かではないが、おそらく天平16年(744)までには完成したものと推定される。更に西院も拡充され、東院伽藍が造営された。

 東院は現在の興福寺本坊の東側に隣接する位置にあったと推定されている。この東院伽藍は、天平宝字5年(761)に藤原仲麻呂(恵美押勝)が聖武天皇と光明皇后の慰霊のために発願した西桧皮葺堂をはじめ、天平宝字8年9月の仲麻呂の乱後、称徳天皇の勅によって造られた百万小塔が分置されたという東瓦葺堂(小塔堂)と、藤原永手のために、夫人と子息の発願によって、宝亀2年(771)に建立された桧皮葺後堂(地蔵堂)があり、さらに僧房と小子房が附属していたという。

 このように元明太上天皇・元正天皇・聖武天皇や光明皇后をはじめ、藤原氏が関わった興福寺の造営は奈良時代後期にほぼ完了したものと考えられている。

本日のご拝観について
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