興福寺について

略史4

鎌倉復興造営

 治承大火後の復興造営は、各国に割り当てて造営費を分担させられる造国制がとられ、公家(官営)、藤原氏、興福寺の3者によって復興させられることになった。

 しかし、復興には長い年月を費やした。源平合戦の影響で出費が遅延したこともあって、当初の計画が変更されたり、造像事業にも影響を及ぼした。

 特に、建物が完成している一方で本尊が出来ていないことに業を煮やした東金堂の衆徒が、文治3年(1187)3月9日、飛鳥・山田寺に押しかけ、金銅丈六薬師三尊像(現在の銅造仏頭)を運び出し、完成していた東金堂の本尊として奉安するという行為は、当時の複雑な造営事情を物語っている。この像は応永18年(1411)に東金堂が焼亡するまで本尊として祀られたが、このことからも、当時の藤原氏と興福寺の勢力を認識することができる。

銅造仏頭

 なお、仏像などの復興は、康慶・運慶などの慶派仏師が活躍した。彼らの作品は現在も数多く伝存している。また、奈良町の発展に大きく寄与するなど、興福寺の鎌倉復興造営は周辺地域にも大きな影響をもたらした。興福寺はその後、建治3年(1277)、嘉暦2年(1327)、文和5年(1356)、応永18年(1411)に罹災しているが、その都度復興を遂げている。

近世の興福寺

 戦国時代ともなると、松永久秀が多聞城を築き、奈良は遂に他国武将の支配を受けた。奈良は戦場にもなり、永禄10年(1567)10月には、久秀の打入りによる大仏殿炎上という事態も起こった。織田信長は足利義昭を奉じて入洛し、やがて政権を樹立した。信長は大和国の検地を行い、寺領の削減を図った。

 豊臣秀吉の時代になると、再び厳しい検地を行ったが、文禄4年(1595)の検地で、春日社と興福寺の知行が2万1千余石と定められた。徳川政権下においてもこの知行が維持され、面目を保った。

 このように武家の治世に興福寺は衰退の兆しを示すが、これに拍車をかけるような大火に見舞われた。享保2年(1717)正月、講堂・僧房・中金堂・回廊・中門・南大門・西金堂・南円堂などが焼失した火災は、近世最大の災禍であった。再興は進まず、南円堂が寛保元年(1741)にようやく立柱し、中金堂が篤志家の寄進によって文政2年(1819)に仮堂が再建されたのみであった。

興福寺伽藍
(宝永五年・興福寺伽藍春日社境内絵図)

明治時代・神仏分離と廃仏毀釈

 幕末から明治維新時にかけての興福寺は神仏分離によって動揺した。すなわち、長年にわたる神仏混淆の信仰形態を拒絶され、これによって一乗院・大乗院をはじめ、他の院家も速やかに復飾して春日大社の新社司となり、ほかの諸坊も新神司として春日社への参勤となった。さらに明治3年(1870)の太政官布告によって境内地以外すべて上知ということになった。興福寺は所領を失い、最終的には堂塔の敷地のみが残されるという惨状となり、加えて宗名・寺号も名のれず、まさに廃寺同様の様相を呈した。神仏分離の施策は廃仏毀釈につながり、寺の破壊や撤去が押し進められた。興福寺では築地塀・堂宇・庫蔵等の解体撤去、諸坊の退転が相次いだが、この頃、五重塔が売却されるという噂も広まったが、これはあくまでも伝承の域を出ない。

 興福寺は明治8年(1875)から同15年まで、西大寺住職佐伯泓澄によって管理された。この間に興福寺の再興が嘆願され、明治14年に寺号の復号許可が出された。翌年には管理権が興福寺に返還され、その後、紆余曲折を経ながらも興福寺再興に向って動き出し、中金堂の返還や寺僧の増加、あるいは境内地返還による復旧等の将来を展望した計画も立てられた。この間、国の文化財保護政策も進み、明治30年から国宝指定が始まり、同33年から建造物や仏像などの修理が行われた。当時の興福寺の規模は往時と比較すれば隔世の感があるが、廃仏毀釈の混乱から一応の落ちつきをとり戻した。

現代の興福寺

 現在の興福寺は、境内地約2万5千坪を有し、昭和34年に竣工した宝物収蔵庫(国宝館)の建設をはじめ、大湯屋・北円堂の解体修理、菩提院大御堂の改築、仮金堂建設、三重塔・南円堂(西国三十三所第9番札所)の修理を完了した。加えて仏像彫刻・絵画・経典・古文書などの保存修理も精力的に行っており、さらに、仏教文化講座や機関誌による伝道などの宗教活動も活発に実施している。

 平成3年(1991)には学識経験者からなる『興福寺境内整備委員会』を設置し、平成10年(1998)2月に「興福寺境内整備構想」を策定した。そして同年10月から第1期境内整備に着手し、翌年から国庫補助事業として中金堂・回廊・中門・南大門・北円堂回廊・西室・中室・鐘楼・経蔵の発掘調査を行い、その結果に基づいて基壇の復元整備を順次進めた。

 そして平成30年(2018)には、享保2年(1717)に焼失して以降、本格的な復元が叶わなかった中金堂が再建された。今後は、第2期境内整備事業に並行して、令和4年(2022)から、国庫補助事業として五重塔の本体修理に着手する。五重塔の修理は明治35年(1902)以来、実に120年ぶりの修理となる。

再建された中金堂

本日のご拝観について
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