興福寺について

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興福寺と「能」について

 現在、興福寺では毎年春・秋の2回、能楽が奉納されています。5月の薪御能、10月の塔影能。ここではその歴史と源流を眺めてみたいと思います。

 おおよそ、大寺の伝統的法要は、個人だけの除災招福を願うことはなく、草木国土一切の為の善願成就を祈ります。したがって、その法要の成功がまず大事なことなので、障り害なく無事の完遂を期して結界を張ります。そして、様々な祈願を種々の神秘的祈祷所作のうち、特に人々の目に映り耳に入る所作を外相といいます。当然、その役目は僧侶で、彼らは法呪師と呼ばれました。やがて行法の威力をわかりやすく演技で示す者へ役目が移るようになります。

 元々、散楽は中国の芸事で、賑やかな音楽を伴奏に、奇術を行い、呪師や儒者・遊女や占師の物真似を滑稽に演じた民間芸能でした。散楽は日本にも伝わり、それに猿楽(申楽)の字を充てたと言われています。

 やがて、散楽は平安時代頃に大寺に所属するようになりました。そして、寺々の大法要に際しては、寺院は所属する彼ら猿楽を専らにする者達に、外相の所作を任せる風になります。彼らは猿楽法師・猿楽呪師と呼ばれ、その所作は「呪師走り」と称されました。

 興福寺の法要は全て春日大社の神々の擁護を仰ぎます。例えば往時に厳修されていた西金堂修二会においては、仏に捧げる神聖な薪を春日の花山から運び、それを迎える儀式を猿楽に真似させて神事芸能としました。また、毎夜神々に供え物をして法要の無事を願う神供の式もありました。献ぜられた薪は、式の行なわれる手水屋において焚かれ、その浄火の下で猿楽が演じられ、そこから薪猿楽と称されるようになったと考えられています。散楽を源流とする物真似を主体とした芸才が役立ったというわけです。しかも、絶大な勢力を聖俗両界に及ぼした興福寺と強く結ばれたことは、猿楽が著しく発展する要素となりました。

 演じたものは、密教の所作や、今日の能の『翁』に伝わり残る呪術的な部分であって、おそらく演劇的要素は無かったと思われます。しかし南北朝時代に至ると、金春禅竹や観阿弥・世阿弥父子らによって猿楽は芸術の域に高められ、能として大成されたのです。

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 さて、薪猿楽の呼称は『建長7年中臣祐茂記』2月6日条が初見であると言われています。鎌倉時代初期には、薪猿楽が修二会に際して、春日社頭・若宮と東西両金堂で演じられていたことが分かります。これを主宰したのは、興福寺・譜代の御家人とも言うべき「衆徒(堂衆/僧兵)」でした。彼らは願主(施主)として一切の運営を請負、執行しました。

 一方、衆徒は彼らの地領で猿楽を組織し育成しました。磯城郡・結崎の観世座、法隆寺に所属した坂門の金剛座、桜井の山田寺に所属した外山の宝生座、そして、十市郡・竹田の金春座でした。このうち金春座はもっとも早く興福寺に所属しました。

 東金堂でも薪猿楽を始めます。西金堂と東金堂はその主催権を巡って争いが起こり、衆徒が仲裁の体をとって、南大門に会場を移します。鎌倉時代の終わり頃の話ですが、実際は衆徒が主催権を召し上げたのです。

 その理由は、修二会の法楽行事化した薪猿楽に人気があったからです。また、衆徒が育てた猿楽座をこれに送り込んだため広場が必要となったからでしょう。この頃に、若宮祭に関する座次が金春・金剛・観世・宝生とした順に決まりました。衆徒らが引き立てて薪猿楽は盛んになったのですが、応安7年(1374)京都・今熊野神社で能会が催されました。見物に来た足利義満は、出演した鬼夜叉(世阿弥)の演技に魅了されます。彼を愛した義満は、大和四座を揃えて薪猿楽に参仕するように厳命します。

 その後、義満は頻繁に奈良に下向するようになりました。特に「春日若宮おん祭り」の見物は欠かさず行ったのは、藤氏に代わった大和の主催者であるとする政治的示威、猿楽・田楽などの芸能が気に入ったからであったと言われています。神事・仏事、ことに春日社興福寺の行事の一部であった猿楽は、やがて猿楽能として完成され独立していきました。

 室町中期以後の薪猿楽の様子は大乗院尋尊、金春弾竹らの記録によって知られます。それらによりますと、4種の行事が次のような日程で組み立てられていたようです。

 (1)2月5日
春日大宮社領での式三番、呪師走り

(2)2月6日より7日間(14日まで雨天順延)
興福寺南大門での猿楽(門の能・薪能)

(3)第3日(順調なら2月8日より4日間)
春日若宮社頭での1座ごとの猿楽(御社上り)

(4)2月10日前後の2日間
一乗院または大乗院での2座ずつの猿楽(別当坊猿楽)

 以上のように、盛大に行われていたことがうかがえます。天文元年(1532)頃には、近世の奈良町の原形が出来上がってきますが、興福寺界隈に住む一般の人達、奈良郷民が興福寺薪御能の桟敷見物を許されています。

 江戸時代になりますと、徳川家康は猿楽の南都参仕料に380石を衆徒に給します。寛文2年(1662)には500石の加増。薪御能に300石、若宮祭礼に300石、それらを猿楽3座(観世座は江戸に留め置き)で分けます。徳川政権は足利将軍家と同等の保護を加えたわけで、これで「薪御能」も「おん祭り」も立ち直りました。猿楽座の参仕にはいろいろ問題もありましたが、薪御能の番組などが残っております。

 さて、明治維新となれば神仏分離の嵐が吹き荒れます。すぐに薪御能・おん祭りは停止されます。春日社興福寺の知行没収は運営にかかる費用捻出ができず、催行を断念するほかなかったのです。

 以降も断続的ではありましたが有志の方々の尽力で催行されました。しかし、明治28年(1895)を最後に、それ以降、催行されることはありませんでした。それが復活したのは昭和18年(1943)でした。大戦中にも関わらず、何故それが催行出来たか。それは、当時の興福寺貫首であった板橋良玄が切望した、奈良・興福会(現在の財団法人・興福会の前身)の設立に関係します。本会は昭和17年11月に設立されましたが、その目的は興福寺伽藍ならびに儀式の復興を主眼としたものでした。その中には、儀式部・伽藍再興部とともに能楽部の設置が明示されています。それを承けての薪御能の復活であったわけです。昭和18年5月7日・8日のことです。そして、昭和19年4月4日・5日にも行われました。

 ここで注目すべきことは、観客は現在の様に南大門から見ることが出来なかった点です。先に述べたように、室町時代に初めて興福寺界隈の人達が桟敷見物を許されて以来の伝統です。能や狂言は神仏に捧げられるもの。それを見ることは観覧ではなく陪観となるからです。陪観とは神・仏に従って見る心構えが基本となります。

 その後は、昭和27年より地方自治体が中心となり、薪御能は四座参勤となる古儀に近い形で行われるようになりました。時期も創始された東西両金堂の修二会に因み、新暦になおして3月14日・15日となりました。現在は5月の第3金曜日・土曜日に行われております。

 現在、薪能と称する野外能は全国各地で行われますが、薪を燃やすから薪能ではないことはよくお分かりになったと思います。芸能に昇華した演能は正面で見ようと拍手しようと許されます。しかし、その源流はあくまで神事・仏事の神聖な儀式であったことを忘れてはなりません。

 なお、10月の第1土曜日にはライトアップされた古都奈良のシンボル・五重塔のもと、仏様に能狂言を奉納する「塔影能」を催行しており、こちらも毎年各地から多くの方々に陪観をいただいております。

 古来より連綿と奉納され続けてきた「薪御能」と、秋の行事として定着した「塔影能」。この2つの芸能空間は我々と神仏との境界が開かれ、皆様をきっと時空を超えた世界へと誘ってくれるでしょう。

お酒の話

 天平勝宝2年(750)2月、孝謙天皇が唐人李元環に外従五位下を授けるため春日酒殿に行幸します。これが奈良で「酒」が史料として見られる最初のようです。その他に、春日祭神酒として白酒・黒酒および神主酒(一夜酒)が知られていますが、今の清酒とは違います。

 平安時代の末頃、神仏習合思想が浸透し、祭政一致が叫ばれるようになりました。大和国の支配を目指す興福寺は、大和は春日の神国と認めるものの、国司を追払ってしまいました。そして、興福寺は春日杜に若宮を創設して春日の祭祀権を奪うことに成功し(保延元年・1135年)、名実ともに大和国の支配者となりました。その後も大和国の守護職としての役割を果たします。

 この頃の史料に「元興寺酒座」が記録されています。酒造販売の始まりのようです。春日若宮神人(じにん)で興福寺寄人(よりうど)の身分をもらった人が元興寺付近で営業を始めました。

 聖俗両界に絶大な勢力を築いた春日社興福寺。僧兵の親玉として知られる衆徒(しゅと)は、興福寺の御家人のようなもの。それぞれの領地を治め興福寺に年貢を収めます。倉庫となるような建造物は至る所にある。多くの米が集る。大寺には井戸や近くには川があって、大量の清浄な水が確保できる。これだけ条件が揃えば、お酒を造れと言っているようなものです。やがて、興福寺配下の菩提山正暦寺や鳴川寺成身院、影響下の河内天野山金剛寺で僧坊酒が量産されるようになりました。

 酒は仏教徒、特に出家者には飲酒戒として自制することが定められています。ところが、戒律の条文には酒造の事も記されます。もとより酒を遠離する事が目的で書かれているわけですが、当時の日本は戒律の遵守がそれほど厳格ではなく、酒造のための好資料となりました。

 桃山時代に入ると、莫大な収入に目をつけた秀吉が、僧坊での酒造を禁止して独占しますが、奈良酒や天野酒の人気は世を席捲し、酒・清酒と言えば奈良と指すようになります。秀吉が引き抜いた酒造職人達は伏見や灘などで技を磨いたと言われています。

宝蔵院流槍術の話

 宝蔵院流槍術は大和国発祥の武道です。その流祖は覚禅房胤栄であり、興福寺の塔頭子院の宝蔵院に住み、十文字鎌槍を活用した独自の槍術を創始して日本有数の槍術流派の礎を築きました。

 ※宝蔵院流槍術はこちらもどうぞ。(外部ページに遷移します)

興福寺と藤原氏

 興福寺の前身は藤原鎌足の病気平癒のため、夫人の鏡女王が京都山科の私邸に建立した山階寺(やましなでら)です。その後、飛鳥に移して厩坂寺(うまやさかでら)を建立。そして平城遷都の際に、藤原不比等が厩坂寺を現在の地に移築し、興福寺と改名します。

 藤原氏の氏寺として藤原氏の隆盛とともに寺勢を拡大し、奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の1つとして栄え、鎌倉・室町時代には大和の守護職的な勤めをするまでに至ります。藤原氏の繁栄とともに寺領を拡大して、堂塔伽藍が百数十棟、僧侶4000人にのぼったといわれています。

興福寺と災害

 興福寺は幾度の火災に見舞われましたが、その度に復興を繰り返し更に寺勢を拡大してきました。その中でも治承4年(1180年)、源平の争いの最中、平重衡の兵火による被害は甚大でした(治承大火)。東大寺と共に大半の伽藍が焼失します。その後、興福寺に所属した運慶ら慶派仏師の活躍によって驚異的な復興を遂げます。興福寺には、治承大火の以降に復興された御像が数多く残されています。

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現在のご拝観について
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