興福寺について
中金堂再建
中金堂再建へ向けて
古くから興福寺をご存知の人から、最近の興福寺境内は見違えるように明るくなりましたね、広くなりましたね、
見通しがよくなりましたね、ばらばらに建てられていた印象の強かった堂塔の配置がわかりやすくなりましたね、との賞賛の声をよく聞きます。大変にありがたいことです。
ただし一方ではきれいになりすぎて、昔の鬱蒼とした面影が失われたのは寂しいことです、との声も聞きます。
このような整備や復元が進められるのは、私ども興福寺だけではなく、春日大社、東大寺、薬師寺、唐招提寺、さらに平城宮朱雀門、大極殿などでもさかんにおこなわれ、新たな万葉の魅力が生まれつつあります。
平城遷都1300年記念の平成22年(2010)は、興福寺も同じく創建1300年を迎えました。
中金堂の創建
興福寺には、金堂が3棟ありますが、そのうち中心となる金堂を中金堂と呼びます。
和銅3年(710)の着手、7年の完成で、その創建者は藤原不比等です。
興福寺の縁起類をまとめた『興福寺流記』に中金堂院の規模を、次のように記します。
「金堂一宇 宝字記云 長十二丈四尺 延暦記云 九間十丈五尺云々 広□八尺 延暦記五丈八尺 大小垂木端并高欄用截金銅餝 延暦記高二丈三尺五寸」
また堂内には本尊釈迦丈六仏像、脇侍菩薩4躰(十一面観音二躰と薬王、薬上菩薩)、四天王像、さらに2組の弥勒浄土像が安置されていました。この弥勒像のうち古い像は、興福寺創建者藤原不比等の妻橘三千代が、不比等の一周忌にあたる養老5年(721)に造像したと記しています。
中金堂の興亡史
興福寺は火災の多かった寺で、手元の記録だけでも100回をはるかにこえます。普通の寺なら一度の火災で壊滅的な打撃を受けて、地上から名も形も消えてしまうところが多いのに、その都度再建されてきたことは、当山の努力もさることながら、壇越の藤原氏や時々の朝廷や幕府、さらには一般民衆の援助によるところ多大なものがあったことを物語っています。
中金堂は平安時代以降、7回もの焼失、再建を繰り返してきました。
創 建 | 和銅3年(710) |
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再 建 | 永承3年(1048)3月2日 |
再 建 | 治暦3年(1067)2月25日 |
再 建 | 康和5年(1103)7月25日 |
再 建 | 建久5年(1194)9月22日 |
再 建 | 正安2年(1300)12月5日 |
再 建 | 応永6年(1399)3月11日 |
仮再建 | 文政2年(1819)9月25日 |
被 災 | 永承元年(1046)12月24日 |
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被 災 | 康平3年(1060)5月4日 |
被 災 | 嘉保3年(1096)9月25日 |
被 災 | 治承4年(1180)12月28日 |
被 災 | 建治3年(1277)7月26日 |
被 災 | 嘉暦2年(1327)3月12日 |
被 災 | 享保2年(1717)1月4日 |
解 体 | 平成12年(2000)7月31日 |
それぞれの被災後の再建は、どのように行われたのでしょうか。その歴史を見てみましょう。
最初の火災は、永承元年(1046)12月24日のことで、西里の民家火災の飛び火によって、北円堂を除いて全焼します。再建は翌年正月にはじまります。興福寺のように、国、あるいはそれに準ずる寺院の復元には、朝廷が臨時の役所を設置して、再建を行いました。
当時の朝廷による再建費用の調達方法は、1つの国、またはいくつかの国に分担させる方式がとられていました。中金堂の規模は大きいので、1つの国に負担させると膨大な額になるので、7つの国が費用を分担する方式がとられました。近江国(滋賀県)、丹波国(京都府)、播磨国(兵庫県)、美作国(岡山県)、備中国(岡山県)、讃岐国(香川県)、伊予国(愛媛県)です。これら造営が命じられた国では、通常の税金から中金堂の再建費用を捻出することはできませんので、臨時の税金、これは神社や寺院、また貴族やお金持ちが所有する土地から徴収します。このようにして中金堂は永承3年(1048)3月、つまり火災から1年3ヵ月という驚異的な早さで再建が叶いました。
2回目は、再建されてから12年後、康平3年(1060)のことでした。まだヒノキの香りが馨しい中金堂本尊釈迦如来像にあげたお灯明の火が原因で焼失します。これには先に再建を行った7つの国が費用を出しあって行いました。その完成は火災後7年目、治暦3年(1067)のことでした。
3回目は、それから29年後、嘉保3年(1096)に僧房、つまり僧侶が集団で寝泊まりする宿舎からの火で、中金堂も焼失します。この頃になりますと、摂関家藤原氏の力も衰え、1回目と2回目に再建を命じられた国は次々に辞退します。その結果、火災から7年後の康和5年(1103)に周防国(山口県)が再建します。この時に大和国内の神社や寺院、貴族やお金持ちが持つ田1町あたり、米1斗を徴収する方式がとられ、これがその後の興福寺再建に大きな比重を占めることになります。
4回目は、それから77年後のことで、源平争乱に興福寺が巻き込まれ、治承4年(1180)の年末に、平氏の焼き打ちにあって全焼し、中金堂も運命を共にします。再建は1回目と同じ7ヵ国に造営を命じることも考えられたらしいのですが、源平争乱による政治的混乱、頻発した自然災害などで、中金堂の再建は進みませんでした。火災から14年目に、当時の藤原氏の氏長者九条兼実の伊予国(愛媛県)と因幡国(鳥取県)によって建久5年(1194)に再建を果たします。
5回目は、83年後の、建治3年(1277)に、僧房への雷火によって中金堂も焼けます。再建は1回目と同じ国に命じますが、この時代にその命令に従う国はありません。23年後の、正安2年(1300)に再建をはたしますが、費用は農民に3日間興福寺で土をこねる作業をさせたり、田1段あたり米1斗を徴収したり、1軒あたりいくばくかのお金を集めたり、また関所の通行料などでまかないます。
6回目は、27年後のことで、興福寺の僧侶同士の争いで、中金堂に火が放たれて焼失します。20年後の嘉暦2年(1347)に再建されますが、14年後の地震で破損し、修理が完成したのが38年後の応永6年(1399)のことでした。これには建武政権や室町幕府からの援助があり、そのもとで5回目と同じような方法で行われ、また将軍家からの多額の寄進がありました。
それから300年ほどは無事でした。7回目の火災は、江戸時代享保2年(1717)のことでした。講堂に入った盗賊が灯りに用いた火が燃え移り、中金堂も焼失します。再建を要請された将軍吉宗からは、徳川家が興福寺を造立した前例はない、また興福寺には毎年修理料として1,000石余りをあたえているのだから、それでまかなうようにと、すげなく断られます。当時、東大寺や興福寺のような大きな寺院の復元や修理の際には、幕府から相応の援助金がもらえました。ところが興福寺復元の時期は運悪く、幕府の政策が寺院の復興に関心がなくなり、また幕府の財政が逼迫し、また興福寺も経済的に苦しい時期にあたっていました。もちろん藤原氏に地位や名誉はあっても、金と力はありません。このようなきびしい状況の中でも、幕府から3,000両の寄付金を引き出し、興福寺の宝物を江戸や、京都御所、清水寺、大阪生玉社などへ持ち込んだりして、資金調達に奔走します。その結果、火災から約100年を経た文政2年(1819)に、奈良町の人々の寄進によって、本来の規模よりもひとまわり小さな仮堂が建てられました。
この建物は明治維新後、明治4年(1871)に国に没収され、警察署や県庁、郡役所に使われたあと、明治16年(1883)に返還され、再び中金堂としての役割を果たします。
しかし寄る年波に逆らえず、老朽化が進んだので、昭和50年(1975)に、中金堂北の講堂跡に仮金堂を建て、本尊などを移安しました。
興福寺境内整備委員会
平成3年(1991)11月に、建築・考古・歴史・風致・文化財といった各界の学識経験者による『興福寺境内整備委員会』を設置し、さらに文化庁・奈良県・奈良市の担当者に加わっていただき、整備をいかに進めるべきかについて検討してまいりました。
その結果、平成22年(2010)が興福寺創建1300年にあたっており、平成10年(1998)から令和5年(2023)までの26年間を「第1期整備計画」として、中金堂およびその周囲の整備をすすめることになりました。
そこで平成10年度から中門と回廊跡の発掘調査を実施し、翌年から国の史跡整備補助事業に組入れられ、回廊、中金堂前庭、中室跡の一部の調査を行い、平成12年(2000)と13年度に中金堂基壇の発掘調査を行いました。
再建された中金堂とは
平成22年に興福寺創建1300年を迎え、平成30年(2018)に中金堂の落慶を目指して計画が練られました。
再建は創建当初の復元を目指し、まず発掘調査の結果に基づいた平面規模と位置の確認を行い、建物の形式と構造・意匠は奈良時代以降の縁起類をまとめた『興福寺流記』、平安時代後期の『七大寺巡礼私記』、中世再建建物の絵画、構造図などの史料を参考に、古代建築史の研究成果に基づいて、興福寺中金堂復元検討委員会で慎重な審議が重ねられました。平成19年(2007)9月に『史跡興福寺旧境内復元検討資料』がまとまり、復元計画案の策定が行われました。
仕様面では古式に則る純木造建築であるため、基本的には奈良時代から現代まで脈々と受け継がれてきた日本建築の伝統的な木工技法を踏襲すると共に、関連するその他の工事の実施にあたっても、出来得る限り古式の工法を採り入れました。
興福寺は度重なる火災後の再建に際しては、創建当初の姿や規模にこだわってきました。それほど保守的で、奈良時代への愛着があったのです。創建当初の図面は伝わっていませんが、記録や発掘調査の結果から、創建当初の中金堂規模は東西36.6m、南北23m、最高高21.2m、寄せ棟造、二重屋根、裳階付きで桁行(東西)9間、梁行(南北)6間の建物です。
平成22年(2010)10月に立柱式を終え、平成30年10月に落慶を迎えました。