中金堂再建
 中金堂再建〜reconstruction

中金堂再建について 勧進のお願い 経過   戻る

はじめに

南大門基壇から北に向かって興福寺境内を眺めると、正面に「赤堂」と呼ばれる中金堂が目に入ります。今では北円堂や南円堂も柱や組物が朱色に塗られていますが、ついこの数10年前までは興福寺境内で朱が塗られていたのは、この建物だけでした。

中金堂は文政2年(1819)9月に、一篤志家を中心とする大勢の奈良の人々らの勧進によって、仮堂を再建された建物です。

・中金堂の創建

興福寺には、金堂が3棟あり、中心となる金堂を中金堂と呼んできました。

その創建に関しては不明な点がありますが、寺伝では、和銅3年(710)着手、7年完成とし、創建者を藤原不比等としています。やがて養老4年(720)に、朝廷は造興福寺仏殿司を設置して、国が造営をおこなうことになったのです。

明治5年(1872年)撮影(東京国立博物館所蔵原版)
明治5年(1872年)撮影(東京国立博物館所蔵原版)
・中金堂の興亡史

興福寺は火災の多かった寺で、手元の記録だけでも100回をはるかにこえます。普通の寺なら1度の火災で壊滅的な打撃を受けて、地上から名も形も消えうせてしまうところが多いのに、その都度再建されてきたことは、当山の努力もさることながら、壇越の藤原氏や時々の朝廷・幕府、さらには一般民衆の援助によるところ多大なものがあったことを物語っています。

中金堂は平安時代以降、7回もの焼失、再建を繰り返してきました。

現在の建物は、享保2年(1717)焼失後、約100年を経過した文政2年(1819)9月25日に、奈良公納堂町の豪商京屋市左衛門が中心となって勧進して、裳階にあたる周囲1間を縮小して、仮再建されました。花崗岩製の基壇のうえに建ち、桁行7間、梁行4間で、いちおう往古の重層形式を伝え、寄棟造り本瓦葺きの建物です。創建当初の中金堂を復元するには、資金が足りなかったので、とりあえず仮堂を建て、資金ができたあかつきに、完全な復元建物を再建する意思があったのでしょう。

しかし、その後の経済状況はかんばしくなく、さらに明治維新後の神仏分離令、社寺上地令、廃仏毀釈の混乱の中、とても再建どころではありませんでした。

中金堂の各部材は、多くがマツ材で、また瓦の焼きも甘く、年月を経るうちに荒廃が進みましたで、昭和50年(1975)に講堂跡に創立し、本尊釈迦如来像以下を移座申し上げて参りました。

明治20年(1890年)頃の中金堂内陣
明治20年(1890年)頃の中金堂内陣
明治20年(1890年)頃の中金堂内陣
明治20年(1890年)頃の中金堂内陣
春日社寺曼荼羅(中金堂院部分)室町時代
春日社寺曼荼羅(中金堂院部分)室町時代

再建 現中金堂
再建 現中金堂
『興福寺境内整備委員会』

平成3年(1991)11月以降、建築・考古・歴史・風致・文化財といった各界の学識経験者による『興福寺境内整備委員会』を設置し、さらに文化庁・奈良県・奈良市の担当者にお集まりいただき、整備をいかにすすめるべきかについて検討してまいりました。

その結果、来る平成22年(2010)が、興福寺創建1300年にあたっており、平成10年(1998)から平成19年(2007)までの10年間を、第1期整備計画として中金堂、およびその周囲の整備をすすめることになり、そこで、平成10年(1998)度から中門と回廊跡の発掘調査を実地し、平成11年度(1999)から国の史跡整備補助事業として組み入れられ、回廊跡東北隅、中金堂前庭、中門跡の一部の調査を行い、平成12年(2000)と13年度(2001)は、中金堂基壇の発掘調査に入ることになりました。

吽形像
吽形像
『現中金堂解体と新中金堂再建』

そこで、現中金堂建物をどうするかについて種々検討した結果、あくまでも仮堂として建てられたもので、マツ材が多く使われていること、また雨漏りのため腐食個所が多く、移建しての再利用は不可能であるが、柱のうち数本は再利用が可能であることが分かり、丁寧に解体して保存し再利用することになりました。

『再建される中金堂』とは

来る平成22年(2010)は興福寺創建1300年にあたっており、その年に中金堂再建がかなうように計画が練られています。

興福寺は度重なる火災後の再建に際しては、建設当初の姿や規模にこだわってきました。それほど保守的で、奈良時代への愛着があったのでしょう。創建当初の図面は伝わっていませんが、記録から創建当初の中金堂規模は東西が36.83m、南北が23.76m、2重屋根、寄棟造、桁行(東西)9間、梁行(南北)6間で、周囲1間分が裳階であったことが考えられます。

中金堂解体工事
中金堂解体工事
中金堂解体工事が無事終了

中金堂の平成22年(2010)再建を目標に、仮説堂宇の中金堂解体工事は、5月23日に法要を行い、8月に無事工事が終了しました。

築後180年を経過しており、また明治混乱期を経験した歴史的意味を持つ建物であるところから、綿密な調査のもと、慎重に解体をすすめ、記録保存を行ないました。

建物本体の規模は、東西が7間(22.3メートル)、南北が4間(8.35メートル)で、本瓦葺の重層建物です。材は、棟木がヒノキ、柱がスギとケヤキでしたが、ほかはすべてマツが用いられていました。組物は平三斗組みで、実肘木を重ねて側桁を受けていました。

「棟札」や銘文などに、この建物は仮殿として建てられるものであること、文政2年(1819)正月に工事をはじめ、9月25日に上棟したこと、大勧進職は妙嬉院法印権大僧都漢字宗、願主は公納堂町の京屋市左衛門壽延、棟梁は藤原朝臣南門大夫邦矩であること、9月15日に大阪の信濃屋助三郎らが野地板10枚を金3両で寄進したこと、平瓦は文政5年3月に、鬼瓦は文政3年正月と4月に、奈良の北半田町や南半田町、小西町、鳴川町、笹鉾町などの大勢の住民が寄進したことなどが書かれていました。

このことから文政2年正月に再建工事がはじまり、9月25日までに野地板をはり、杉皮をのせるところまで工事が進み、上棟式をむかえることができたこと、瓦は遅れて、この9月から5年3月まで、約2年半かかって造られ、葺かれたことを知ることができました。この間、屋根は土間葺きの杉皮がはられたままでした。杉皮は吉野郡の上市や川上村から納入された大変に上質のもので、雨漏りはしなかったようです。

使われていた瓦は合計約5万枚。軒瓦は瓦町の桧皮屋平蔵、通称「桧平」らによって、さらに鬼瓦は同じく桧皮屋平蔵、菖蒲池町の三郎兵衛、板新屋町の五兵衛らが造り、寄進したものでした。

また庇屋根内部から大工道具のキヅチ、スミサシ、ヒカリツケが発見されました。おそらく文政再建時の大工の忘れ物と思われます。大工が実際に使った道具ですから、大工の息づかいが感じられる貴重な発見物でした。

基壇は現在シートで覆っていますが、来年1月から半年の予定で、発掘調査に入ります。

なお国宝館で10月1日から12月14日まで、平成10年と11年に行なわれた中門跡、回廊跡、中金堂前庭の発掘成果を展示する「発掘調査速報展」を開催しますが、同時にこの解体修理で発見した墨書や各種瓦、大工道具も展示します。ご期待下さい。

中金堂
中金堂
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