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1月2日 春日社参式 |
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皆さまは、お正月にはお参りに行かれますか。そのときは何処にいかれるのでしょう。多くの人は、神社に行かれることと思います。また、お盆には何処にいかれますか。これは、まずお寺にいかれる方が多いと思います。この他にも、日本ではクリスマスを祝ったり、節分を祝ったりとすっかり本来の宗教的意義は忘れて風俗化しています。今回はそのルーツを興福寺の正月行事。春日社参式にからめ探ってみたいと思います。 興福寺では、正月の2日に一山僧侶と寺に有縁の方々と共に、春日大社にお参りいたします。この日は春日大社の日供始(にっくはじめ)で、日々、神々にお供えをする1年の最初の日です。宮司をはじめ神官の方々と一緒にお参りをし、社頭において般若心経と唯識三十頌を読誦するのです。神社でお経を?と思われるかもしれませんが、興福寺と春日大社の密接な歴史的関係を除いても、明治時代までは一般的にもごく自然のことでした。 仏教の日本への公伝は、欽明3年(538)といわれています。当初は外来の宗教で、しかも当時最先端の文化でしたから、咀嚼するには随分と時間がかかりました。そして、仏教が日本の国民的思想に同化するようになったのは、平安時代も末のことです。その結果が、本地垂迹(ほんぢすいじゃく)説というものでした。本地垂迹説とは、無始無終たる絶対の仏様が衆生済度のために迹(教化・救済の姿)を様々な神の形をとって現わす。であるから、仏も神も帰するところは1つであるという思想です。この本地垂迹の語は法華経の如来寿量品からとられたものです。 本地垂迹の思想の萌芽は既に奈良時代にも見られます。しかし、東大寺要録、元亨釈書等に見られる橘諸兄・行基菩薩創始の伝説は後世の作で、実際には神仏習合思想の域は出ていません。神仏習合思想とは、神も衆生の一で、人間と同じく迷界に流転する存在ですので、覚りを求め仏法を尊び擁護するという思想です。そこから、神様のためのお寺の建立(神宮寺)、納経、僧侶による神前読経、果ては神様に菩薩号(八幡大菩薩など)を付けるなどのことが行なわれました。神前読経にかんする史書における初見は、延暦13年(794)九州の3神社(宇佐八幡・宗形・阿蘇)に僧侶を派遣しての読経です。 このように、神様は仏教の教えを受け、覚りを得て菩薩となったのですが、仏様同体になるには至りませんでした。その習合思想が発展して、神様と仏様が一体となる本地垂迹思想が、史書に現れる様になるのは平安時代中期の承平7年(937)です。以後ますます発達した本地垂迹思想は、ついに神々と仏様が一緒になったのでした。現在も続く興福寺の春日社参式は、仏教が日本に根付いた歴史でもあるのです。 |
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