興福寺について
 興福寺あれこれ〜お酒の話

お酒の話 能(のう)の話  

お酒
日本の食文化 清酒のお話し

奈良は日本文化のふるさとと云われます。最近は歴史・考古ブームで、遺跡発掘の現地説明会は大賑わいです。まことに奈良は遺跡の宝庫ですが、幾百年も当たり前のように、そこかしこに起立する寺社から何が生れてきたかを知る人は意外に少ないようです。奈良の寺社が現在に在るのは、遺跡などのように偶然残ったわけではありません。寺社を護り育てる人達がいて、その努力を世間が認め、またそれを是として時々の政権が庇護したからです。

さて、それでは奈良の自慢話しを始めましょう。

清酒発祥の話しは各地に伝承がありますが、誰がどう言おうと奈良がその栄誉を担います。人の酒の飲みはじめは定かでありません。恐らく、お猿さんと兄弟の時代から自然酒は飲んでいたのでしょう。 それはともかく、ここ奈良では神武天皇このかた酒が造られてきました。天平勝宝二年(七五〇)二月孝謙天皇が唐人李元環に外従五位下を授けるため春日酒殿に行幸します。これが奈良で「酒」が史料として見られる最初のようです。その他に、春日祭神酒として白酒・黒酒および神主酒(一夜酒)が知られていますが、今の清酒とは違います。

平安時代も末、神仏習合思想が浸透し、祭政一致が叫ばれるようになりました。神を祭るものが国を治める。大和国(奈良県)支配を目指す興福寺は、大和は春日の神国と認めるものの、国司を追払ってしまいました。そして、興福寺は春日の杜に若宮を創設し、春日の祭祀権を奪うことに成功し(保延元年一一三五)、名実ともに大和の支配者となりました。その後も、源氏に味方した形になったことも幸いし、鎌倉時代になっても大和守護職としての役割を果たします。

このころに「元興寺酒座(さかざ)」が記録されています。酒造販売の始まりのようです。春日若宮神人(じにん)で興福寺寄人(よりうど)の身分をもらった人が元興寺付近で営業を始めたもの。

聖俗両界に絶大な勢力を築いた春日社興福寺。こうした体制は室町時代末まで続きました。僧兵の親玉として知られる衆徒(しゅと)は、興福寺の御家人のようなもの。それぞれの領地を治め興福寺に年貢を収めます。倉庫となるような建造物は至る所にある。多くの米が集る。寺には井戸があって、大量の清浄な水が確保できる。 これだけ条件が揃えば、お酒を造れと言っているようなものです。やがて、興福寺配下の菩提山正暦寺や鳴川寺成身院、影響下の河内天野山金剛寺で僧坊酒が量産されるようになりました。しかも、当時の寺は第一級の知識人の集りです。

お酒は仏教徒、特に出家者には飲酒戒として自制することが定まっています。ところが、戒律の条文には酒造の事が記されているのです。もとより酒を遠離する事が目的で書かれているわけですが、日本では大らかで守戒全般がそれほど厳格ではなく、酒造りの格好の資料となったことでした。

紅葉
つくし

正暦寺では酒造過程で火を入れたり、金剛寺では灰を入れたりと、様々な工夫をこらして、ついに清酒の原形を創り出してしまいました。

桃山時代に入ると、莫大な収入に目をつけた秀吉が、僧坊酒造りを禁止して独占しますが、奈良酒、天野酒の人気は世を席捲し、酒・清酒と言えば奈良でありました。秀吉が引き抜いた酒造りの職人達は、彼のお膝もとの伏見、次に灘で技を磨きます。おかげで、江戸時代も半ばになると、奈良酒はすっかり沈滞してしまいました。

ところで、最近はワインが一般的になってきました。日本とヨーロッパとの交流が繁くなった天正年間、ワインが飲まれるようになりました。新し物好きの信長などは好んで飲んだようです。ワイン造りも難しいでしょうが、清酒造りの苦労に比べれば楽なもの。金剛寺配下の河内長野で日本初のワインが完成されました。四〇〇年前のことです。江戸期に入ると忘れ廃れてしまいました。現在の浮かれたワイン・ブームも歴史を辿れば結構底が深いではありませんか。


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