興福寺整備計画

計画案と進捗状況

中金堂復元工事

 創建当初の中金堂(ちゅうこんどう)復元のために、まず中金堂基壇(きだん)の全面発掘調査で平面規模と位置の確認を行いました。
 建物の姿かたち、内部構造などは、奈良時代以降の興福寺の縁起類をまとめた『興福寺流記』(こうふくじるき)、平安時代末期の『七大寺巡礼私記』、中世に再建された建物を描いた絵画や建築図、奈良時代の唐招提寺金堂の調査、近年画期的な成果をあげている古代建築史の研究成果などを取り入れて、学識経験者による興福寺中金堂復元検討委員会による慎重な審議を経て、復元計画を作成しました。
 中金堂復元は、史跡興福寺旧境内の中心をなす最も重要な建物の復元であるにとどまらず、今後の日本の伝統的木工技術の保存や発展、さらには将来の文化財建造物として奈良時代の様式を後世に伝える復元計画であって、平成22年(2010)に同じく平城遷都1300年を迎えた古都奈良の新たな象徴となり、かつ後世に残る文化遺産です。
 これほど大規模な木造建築は、今世紀はもうないだろうといわれており、木造建築の世界文化遺産として、後世に誇れるような建物にしなければなりません。

中金堂基壇(ちゅうこんどうきだん)

平成12年(2000)からの中金堂基壇発掘調査の結果は、次の通りです。

  • 基壇は凝灰岩(ぎょうかいがん)で組み上げた壇正積(だんじょうづみ)で、東西41m、南北27.5m、高さ1.3m、須弥壇(しゅみだん)は東西20m、南北6.4mでした。
  • 創建以来7度も被災・再建を経たのに、基壇には手が加えられていませんでした。被災後の再建に際しては、創建当初の姿かたちが踏襲されてきたことがあきらかになりました。
  • 建物の規模は正面7間、側面4間で、これに裳階(もこし)が廻るので、正面9間(36.6m)、側面6間(23m)で、柱は66本が使われていました。
  • 1尺は約29.54pとして設計されていました。
  • 明治7年(1874)と17年に、奈良時代の鎮壇具(ちんだんぐ)、つまり中金堂を建てる時に、その土地の神に供えられた宝物、すなわち鏡、玉、刀、金、銀、和同開珎(わどうかいちん)など1500点以上が出土しました。今回の調査でも金、玉、真珠、和同開珎など300点近くが出土し、合計1800点以上にも及ぶ、我が国で最も豪華な鎮壇具であることがあきらかになりました。

中門(ちゅうもん)と回廊基壇(かいろうきだん)復元

平成10年(1998)からの中門と回廊基壇発掘調査の結果は、次の通りです。

  • 基壇は中金堂(ちゅうこんどう)と同じく凝灰岩(ぎょうかいがん)による檀正積(だんじょうづみ)でした。
  • 中門は正面5間(23m)、側面3間(8.4m)、柱は18本、回廊は幅2間(7m)、総延長は224mで、柱は156本が使われていました。
  • 古絵図に、中門の左右には邪鬼(じゃき)を踏みつける持国天(じこくてん)と増長天(ぞうちょうてん)、さらにその周囲に各4体の従鬼(夜叉 やしゃ)像が描かれますが、発掘調査でその台石が出土しました。
  • 中門北階段のすぐ北に、小さな穴を掘って、その中に土器21枚が重ねられていました。これは11世紀後半頃の地鎮(ぢちん)遺物で、土地の神を鎮めるための儀式に用いたものです。
  • 東回廊基壇の内側から、金箔の貼られた安土桃山時代(16世紀末)の五七桐文軒丸瓦が出土しました。金箔瓦は大和国からはじめての出土で、我が国の寺院からは2例目でした。