年中行事とイベント案内

一年間の行事

弁才天供(べんざいてんく)三重塔 7月7日

 僧兵が跋扈(ばっこ)していた時代、南都北嶺(なんとほくれい)と恐れられた興福寺。受ける印象は男性的なお寺ではないでしょうか。そうしたイメージから少しはなれたお堂に興福寺三重塔があります。繊細で、いかにも女性の優しさがただよう美しい小塔です。観音霊場の賑わいと南円堂の西側に、ひっそりとたたずんでいます。この塔は最初、崇徳天皇后妃・皇嘉門院藤原聖子の御願によって、康治2年(1143)に竣工しました。治承4年(1180)、平重衡の南都焼打によって焼失しましたが、鎌倉時代前期に再建され現在に至ります。

 初重内陣は、中央の柱の4天柱に組まれた仏壇中心に方柱が立ち、方柱と四天柱の間にはX形に縦板が千体仏が彩色されています。これは興福寺三重塔独特のもので、ほかに例はありません。少し横道にそれますが、3千年の昔、エジプトに日本でも有名な少年王ヌヌ・アンク・アモン(ツタンカーメン)がおりました。彼は16才でこの世を去り、死後の世界に模した地下墓に葬られたのです。やがて20世紀に入り発見された棺にはわずかに色をとどめた可憐な花束があったそうです。最後の別れを惜しんだ、幼い彼の王妃が捧げたものであったのでしょうか。女性の優しさは洋の東西を問わず、昔も今も変わりありません――、と思います。外観ばかりでなく、あまり他に例の無い三重塔の内陣も、実は藤原聖子のその様な意を具現したものではないでしょうか。

 明治時代になり廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐がおさまる頃、三重塔に新たに御仏像が祀られます。興福寺旧塔頭(たっちゅう)・世尊院の弁才天とその諸尊です。弁才天は元のお名前をサラスヴァティー(Sarasvati)と申され河の女神でした。やがて学問・智慧・音楽を司どる女神となり、中国で美音天・妙音天などと訳されました。日本では吉祥天と混同されたため、福徳・財宝の神とされ室町時代中期頃より七福神の一に数えられるようになりました。ですから、俗に弁財天と書かれます。お姿は、八臂座像で15童子を眷属とされています。


 興福寺南円堂の建立の時は、弘法大師空海が無事の完成を祈り天川弁才天に参籠されたと伝えられています。そのとき宇賀弁才天を感得し、ためにその神を興福寺に窪弁才天として勧請しました。またこの時、南都に七弁才天をも勧請し、その際に供物に餅飯を整えて7ヶ日の布施を施したことから、餅飯殿町の名がおこったということです。冬嗣と親交のあった大師のこと、十分想像できる言い伝えではあります。

 以来、興福寺では多聞天院日記にも見られるように、学問遂行を祈ってか熱心な弁才天信仰が続いていました。現在は7月7日午前9時より午后4時まで年1回の特別開扉があり、午前10時からは法要が行なわれます。蝉の声を聞きながら、ゆっくりお参りにおいで下さい。