年中行事とイベント案内

一年間の行事

薪御能(たきぎおのう)南大門跡 5月 第3金・土曜日

薪御能と塔影能(1)

 江戸期の『大和名所図絵』、今でいうところの観光案内書には、冬の大和の行事についてもいろいろ書いてあります。そのうち有名でもっとも人気があったのが興福寺と東大寺の修二会でした。何がかくあらしめたかと申しますと、法会もさることながら、それに欠かせない行事に人々は熱中したのでした。それが興福寺の薪御能(たきぎおのう)と東大寺の篭松明(かごたいまつ)です。今回は現在行われる、薪御能と塔影能(とうえいのう)についてその源流を尋ねてみたいと思います。

 興福寺国宝館にお祀りされている、阿修羅像をはじめとする天平の諸尊はもともと東金堂に正対する西金堂に安置されていました。その西金堂で修二会が始行されたのが貞観11年(869)です。修二会は修二月会のことで、旧暦における迎春法要です。

 おおよそ、大寺の伝統的法要は、個人だけの除災招福を願うことはなく、草木国土一切の為の善願成就を祈ります。したがって、その法要の成功がまず大事なことなので、障り害なく無事の完遂を期して結界を匝らせます。そして、様々な祈願を種々の神秘的祈祷所作のうち、特に人々の目に映り耳に入る所作を外相といいます。当然、その役目は僧侶で、彼らは法呪師と呼ばれました。やがてその役目が猿楽(散楽)呪師に委ねられます。

 散楽は大唐は中国の芸事で、賑やかな音楽を伴奏に、奇術をしたり呪師や儒者・遊女や占師の物真似を滑稽に演じた民間芸能でした。散楽は日本にも伝わり、それに猿楽(申楽)の字を宛たといわれています。

 散楽は平安時代頃に大寺に所属するようになりました。そして、寺々の大法要に際しては、寺院は所属する彼ら猿楽を専らにする者達に、外相の所作を任せる風になります。彼らは猿楽法師・猿楽呪師と呼ばれ、その所作は<呪師走り>と称されました。

 興福寺の法要は全て春日大社の神々の擁護を仰ぎます。西金堂修二会においては、み仏にささげる神聖な薪を春日の花山から運びました。それを迎える儀式を猿楽に真似させて神事芸能としたのです。修二会では毎夜神々に供え物をして法要の無事を願う神供の式がありました。献ぜられた薪は、式の行なわれる手水屋において炬かれ、その明々と燃え盛る火のもとで猿楽が演じられ、そこから薪猿楽と称されるようになったと云われます。散楽を源流とする物真似を主体とした芸才が役立ったというわけです。しかも、絶大な勢力を聖俗両界に及ぼした興福寺と強く結ばれたことは、猿楽が著しく発展する要素となりました。

 恐らくその演じたものは、密教の所作や、今日の能の『翁』に伝わり残る呪術的部分であって、劇的要素はなかったと思われます。しかし南北朝時代に至れば、金春の禅竹や観世の観阿弥・世阿弥父子らによって猿楽は芸術の域に高められ、能として大成されたのです。

薪御能と塔影能(2)

 薪猿楽の呼称は『建長7年中臣祐茂記』2月6日の条に初見されると言われます。鎌倉時代初期には、薪猿楽が修二会に際して、春日社頭・若宮と東西両金堂で、すでに演じられていたことが分ります。これを主宰したのは、興福寺・譜代の御家人とも言うべき衆徒でした。彼らは願主人(施主)として一切の運営を賄い執行しました。

 一方、衆徒は彼らの地領で猿楽を組織し育成しました。磯城郡・結崎の観世座、法隆寺に所属した坂門の金剛座、桜井の山田寺に所属した外山の宝生座、そして、十市郡・竹田の金春座でした。このうち金春座はもっとも早く興福寺に所属しました。

 東金堂でも薪猿楽を始めます。西金堂と東金堂はその主催権めぐって争いがおこり、衆徒が仲裁の体をとって、南大門に会場を移してしまいます。鎌倉時代の終わりごろです。実際は衆徒が主催権を堂衆から召し上げたのです。

 修二会の法楽行事化した薪猿楽に人気があったからです。また、衆徒が育てた猿楽座をこれに送り込んだため広場が必要となったからでしょう。このころに、若宮祭に関する座次が金春・金剛・観世・宝生とした順に決まりました。衆徒らが引き立てて薪猿楽は盛んになったのですが、応安7年(1374)京都今熊野神社で能会が催されました。見物にきた足利将軍義満は、出演した鬼夜叉(世阿弥)の演技に魅了されてしまいました。彼を愛した義満は大和四座はそろって薪猿楽に参仕するように厳命します。

 その後、義満は頻繁に奈良に下向するようになりました。ことに下向したのはおん祭り見物で、これは藤氏に代わった大和の主催者であるとする政治的示威もあったでしょうが、猿楽・田楽などの南部の芸能がいたく気にいったからともいえます。神事・仏事、ことに春日社興福寺の行事の一部であった猿楽は、やがて猿楽能として完成され独立していきました。

 室町中期以後の薪猿楽の様子は大乗院尋尊、金春弾竹らの記録によって知られます。それらによりますと、4種の行事が次のような日程で組み立てられていたようです。

(1)2月5日
・春日大宮社領での式三番 呪師走り

(2)2月6日より7日間(14日まで雨天順延)
・興福寺南大門での猿楽(門の能・薪能)

(3)第3日(順調なら2月8日より4日間)
・春日若宮社頭での1座ごとの猿楽(御社上り)

(4)2月10日前後の2日間
・一乗院または大乗院での2座ずつの猿楽(別当坊猿楽)
(表章著『奈良と能楽』より)

 盛大に行われていたことがうかがえます。天文元年(1532)頃には、近世の奈良町の原形が出来上がってきますが、興福寺界隈に住む一般の人達、奈良郷民が興福寺薪御能の桟敷見物を許されています。

薪御能と塔影能(3)

 江戸時代になりますと、徳川家康は猿楽の南都参仕料にと380石を衆徒に給します。寛文2年(1662)には500石の加増。薪御能に300石、若宮祭礼に200石、それらを猿楽3座(観世座は江戸に留め置き)で分けます。徳川政権は足利将軍家と同等の保護を加えたわけで、これで薪御能もおん祭りも立ちなおりました。猿楽座の参仕にはいろいろ問題もありましたが、薪御能の番組などがきちんとのこっております。

 さて、明治維新となれば神仏分離の嵐が吹き荒れます。両3年は続いたようですが、すぐに薪御能・おん祭りは停止されます。春日社興福寺の知行没収は運営にかかる費用捻出ができず、催行を断念するほかなかったのです。

 以上が、薪御能の簡略な歴史です。明治3年以降も断続的ではありましたが有志の方々のご尽力で催行されていました。しかし、明治28年(1895)を最後に、それ以降行われることはありませんでした。それが復活したのは約半世紀を経た、物資も乏しくなった戦中も後半、昭和18年(1943)でした。戦中にも関わらず、何故それが催行できたかは、当時の興福寺板橋貫首が切望した奈良興福会(現在の財団法人興福会の前身)の設立に関係します。昭和17年11月に設立されましたが、その目的は興福寺伽藍ならびに儀式の復興を主眼としたものでした。そのなかには、儀式部・伽藍再興部とともに能楽部の設置が明示されています。それを承けての薪御能の復活であったわけです。昭和18年5月7日・8日のことです。そして、翌昭和19年4月4日・5日にも行われました。

 ここで注目すべきことは、観客席は今の様に南大門からは見ることが出来ませんでした。そこはポッカリ空いていたのです。先に述べたように、室町時代に初めて興福寺界隈の人達が桟敷見物を許されて以来の伝統です。能や狂言は神仏に捧げられるもの。それを見ることは観覧ではなく陪観となるからです。陪観とは神・み仏に従って見る心構えが基本となります。

 その後は、昭和27年より地方自治体が中心となり、薪御能が4座参勤となる古儀に近い形で行われるようになりました。時期も創始された東西両金堂の修二会に因み、新暦になおして3月14日・15日となりました。現在は5月 第3金・土曜日に行われております。

 現在、薪能と称する野外能は全国各地で行われますが、薪を燃やすから薪能ではないことはよくお分かりになったと思います。芸能に昇華した演能はは正面で見ようと拍手しようと許されます。しかし、その源流はあくまで神事・仏事の神聖な儀式であったことを忘れてはなりません。

 現興福寺・多川貫首の発願した興福寺塔影能。東金堂のお薬師様に捧げられるものですから、舞台を正面から見ることは出来ません。拍手も許されません。しかし、秋冷の大気の夜、キリリと締まった塔影能は往昔の人々の息吹きを感じます。皆様もぜひご参加下さい。毎年10月の第1土曜日、夜5時に開催されます。