興福寺について

貫首より

静寂と安穏を

 ――軍需産業に焦付きはない。と、およそ五十年前の大昔、大学の一般教養の授業で聴いた。
 この分野では、敵国や仮想敵国の軍備に劣ってはならないから、絶えず技術の革新が求められるし、その競争は概ねイタチごっこだ。そこで、膨大な資金を費やしてもいずれは回収できるし、功を奏すれば、儲けもすごい。
 わが国は専守防衛ということになってはいる。が、より速くより正確に敵を制圧するにはどうしたらいいのか、その分野では、やはりそれが問題であろう。そして、それに向けて日夜、研究・開発に余念がない。というのが国というものの、あるいは、軍事機構の断面だ。
 しかし、それにしても、世界は概ね疑心暗鬼だから、恒久平和とはいえ、当面の利害得失こそ肝心で、集散離合も厭わない。イヤそれどころか、――俺んちだけがよければいい、という状況になり易い。現に、世界はもはや相当細かなところまで繋がってしまっているのに、アメリカ・ファーストなぞといって憚らないのだ。まさに当面の一寸しかみていないわけで、その一寸先は闇、というより更なる混乱が待ち構えているに違いない。
 いずれにせよ、かつての東西冷戦が終結して得た、つかの間の平穏?は過ぎたらしい。またもや、どの国も自国の思惑を臆面もなく前面に出し、自国の権益拡大を窺っている。
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 そういう世界というか社会だから、私たちの日常もまた、技術の革新に余念がない。一分一秒でも早いアクセスが求められる。もはや「これくらいでよい」なぞという現状維持の考えは一顧だにされず、更なる利便性を求めて、現状打破の勢いは加速度を増す。社会はとにかく発展しなくてはいけないのだ。
 一方、そういう社会に暮らす私たち人間そのものはどうか――。若いうちはともかく、齢を重ねれば、望みは穏やかに成熟する日々であり、その平穏への祈りは切実である。
 能という日本文化を代表する楽劇では、<老い>のテーマが重要だが、その極めつきが「翁」であろう。翁の面(おもて)は神聖で、シテは翁面を付けることで神になるといわれるが、私はいつも「翁」をみて、つぎのようなシーンを思い描いてしまう。――その翁はクシャクシャ顔で、一見痴呆かと思わせる笑みを浮かべている。むろん、歯なぞ全部抜け落ち、口まわりもすでに弛緩しているから、食べ物はこぼすし・よだれもくる。だから、なにかを喋ってもふがふが・・・・していて、およそ言語不明瞭・意味不明きわまりない。
 それでも、神となった翁は、これだけはいっておきたいと声をあげる。――社会の発展かなにか知らないが、他者と争い、蹴落とすか蹴落とされるか、他者の弱みにつけ込み・自身の弱みにつけ込まれる。そんな不毛な争いなぞ、もう沢山だッ、と。
 そして、今のいままでへたり込んでいた翁はすっく・・・と立って、意味不明の唸り声をあげるのだ。「とうとうたらりたらりら、たらりあがりららりとう…」だとか「どうどうたらりたらりら、たらりららりららりどう…」だとか、流派によってすでに詞章が違っている。
 どっちが正しいというのでなく、どちらでもよく、要するに呪文で、穏やかな日々の到来こそ祈るのだ。そして、それを求める心があってこそ、国土も安穏たりえるのだ、と。 私たちも、静寂と安穏の絶対平和こそ祈らなければならない。

興福寺貫首 多川 俊映