興福寺について

貫首より

世界の混沌と自己の愚迷と

 ――世界は「混沌の時代」に入った。というのが、大方の見方らしい。昨今、新聞記事の見出しにも、こうしたコトバを見かけることが多くなった。たしかに、近ごろはどちらを向いても自国ファースト・自分ファーストで、それまでのさまざまな秩序が崩れつつある。
 しかし、別に達観しているわけでもないが、世の中というのは、いつの時代も、混沌・混迷をきわめるものではなかったか。その意味で、いまさら事々しく「混沌の時代」でもあるまい。むろん、――昔はよかった。なぞというのは、完全な錯覚である。
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 たとえば、というには、あまりにも昔かもしれないが、たとえば天平時代――。現在、私たち興福寺が進めている中金堂の再建は、皆さまのおかげをもち明年十月七日に落慶の運びである。天平様式・天平規模での再建で、こうした境内整備事業の合言葉が《天平の文化空間の再構成》だから、時に天平という時代をいろいろ考えてみる。そのとき陥り易いのは、「古代のロマン」というあの甘いイメージないし響きである。しかし、そういう古代の人々も、別に古代人として生きたわけではなく、まさに現代人として暮したのであり、それこそ種々さまざま、苦心惨憺したのではなかったか。
 それはともかく、病の身に小康を得るということはある。その伝でいえば、いままでの世界秩序は、その小康状態だったに過ぎず、別に病が癒えたわけでもないのだ。ただ、さいわい小康を得れば、しばらくは皆さすがにおとなしくしている。が、そのうち、――これでいいのだッ。と、勘違いして、みさかいなく暴飲暴食。あるいは、――諸君、これでいいのか? そこは俺んちではないか。なぞと大いに自己を主張して小競り合い。またぞろ病の身となるか、もしくは、病膏肓に入る身となる…。世界史とは、いってみれば、この繰りかえしである。
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 この点、かのビスマルクは「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」と述べたという。が、こうした世界の動向を概観すれば、この賢愚論も台無しという他ない。つまり、真に歴史に学ぶ賢者はついに出ず、たとえ出たとしても後に続かず、一方、経験にも学び得ない「喉元過ぎれば熱さを忘れる」愚者ばかりが続々と登場する。
 しかし、こうした混沌や混迷が、どこか向こうからやって来るのではない。そうではなく、世界を構成している私たち自身の内面に由来する。――というのが、宗教のみかたである。そして、そうした内面、つまり、自己の愚迷を凝視することこそが、混沌・混迷の世の中を作り出し、かつ、そこに暮らす私たち自身の宗教的課題にちがいない。
 そうした自己の愚迷というものを真摯に凝視しつづけた人に、興福寺ゆかりの解脱上人貞慶(じょうけい)(一一五五〜一二一三)がおられる。昨今の混迷云々のちなみに、また、その著『愚迷発心集』を手に取り、学びたいと思う。

興福寺貫首 多川 俊映