興福寺について

貫首より

みているものが同じでも

 今年の夏は文字通り猛暑・酷暑で、まだその余波が続いている。三八℃や三九℃といういままで思いもしなかった高温を軽々と超え、ついに七月二三日、埼玉県熊谷市など四か所で四一・一℃という史上最高気温を記録した そうした高温が、何かの拍子で下温して三三℃にでもなれば、――今日は涼しい。なぞと感じること自体、考えてみれば、尋常ならざることという他ない。
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 ところで、たとえば同じ気温の一五℃でも冬から春になる一五℃と、夏から秋になる一五℃とでは、体感がずいぶん違う。冬から春になる一五℃は暖かく、一方、夏から秋になる一五℃は、もう肌寒い――。一五℃という温度はいわば「事実」で、まぎれもないものだが、そういう事実そのものを、誰もが、そして、いついかなる時も共有し、あるいは共感しているわけではない。
 ふつう、事実は客観的で動かないもの、あるいは動かしようのないものと思われている。しかし、その一方で、私たちの事実認識は、そんなものではない。事実になにかしら主観を混ぜている。たとえば、その事実をめぐる知識を被せ、また、好悪の感情を交えて認識し、あれこれ判断している。そうした判断には、しばしば希望的観測というのが入るから、ミスが目立つわけだ。
 私たちのこうした日常をふり返れば、動かしようのない事実も、変幻自在のシロモノと化す。そのうえ屁理屈をこねれば、本来明々白々の事実も、たちまち以て闇の中だ。
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 私たちがみている「これぞ世界だ」というその世界は、大体、こういうものだ。ものごとを映す、私たちの心という鏡は凹凸入り乱れていて、しかも皆ちがうから、十人十色――。これを「人人唯識(にんにんゆいしき)」というが、この「人は皆、独自の世界をもっている」あるいは「人は皆ちがうのだ」というところから、人間関係をはじめればよいものを、なぜか私たちはそうしない。ふだん、個性的なのがよいといっているのに、「人は皆、同じ」という没個性の考え方に泥(なず)んで、人間関係を構築しようと躍起である。 もとより、人は皆ちがうから、たちまちそのちがいが気になって、その挙句、「なんでちがうんだ」というお粗末となる。人は皆ちがうが、共通するところが無いわけではない。そこを起点にした人間関係こそ、求めたいではないか。
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 唯識仏教では、つぎのように、八識という心の構造を考えている。
  前五識(ぜんごしき)(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五感覚)
  第六意識(知・情・意のはたらき)
  第七末那(まな)識(意識下の自己中心性)
  第八阿頼耶(あらや)識(心の深層。過去の行動情報の蓄積。現在と未来の大本(おおもと))
私たちは、与えられた個体的条件もちがえば、問題意識の有無もその濃淡もちがう。端的に、みているものが同じでも、皆、みているものがちがう・・・のだ。

興福寺貫首 多川 俊映