興福寺について

寺務老院より

いまさら「令和」のこと

 「令和」と改元されて、そろそろ半年が経つ。四月一日の政府による新元号発表以降、しばらく騒然としたが、さすがに近ごろでは、「令和」を話題にする人は誰もいない。
 ――一体、あの騒ぎは何だったのか。であるが、もはやすっかり人々の日常に収まっているのであろう。なにごとにもよしあしがあり、その上、好悪も絡むのが、人の世の常だ。そうしたなか、元号も一種の記号であれば、個人的に嫌悪感をもつ人は別だが、ふつうは使うほどに愛着も出てくるし、同時にそれとは矛盾するが、無感覚にもなるのだ。むろん、発案者や発令者の意図とはまた別に、一人歩きもする。記号とはいえ、意味が内在しているからである。
 思い返せば、「令和」の元号をめぐって、人はいろんなことを述べた。さすがに、『万葉集』が典拠ということにダメ出しする人はいなかった。が、梅花三十二首の序(漢文)から「令和」の二字をひっぱり出してくるのは、漢文の常識からは無理だというもっともな意見があったし、また、「令」の音も、宴を催した大伴旅人など当時の人々は「レイ」ではなく、呉音の「リョウ」を意識していたはずだ、とか。さらには、典拠となった序の末に、「詩に落梅・・の篇を紀す。(いにしえ)と今と()れ何か異ならむ。(よろ)しく園の梅を()して、(いささ)か短詠を成すべし」とあり(傍点、引用者)、散るのは縁起が悪い、という意見もあった。しかし、花を詠めば、蕾なら咲いてほしく思うし、咲けば咲いたで散らないでほしい。そして、散るのもまた好し、だ。まあ、これなぞは難癖の部類であろう。
 興味深かったのは、「令和」の海外報道だった。英BBCは、「令」は order(命令)、「和」は peace または harmony と報じ、英紙フィナンシャル・タイムは、「令」を auspicious(縁起がよい)と order とを併記したという(日経新聞、平成31・4・26 付夕刊)。この点、上から目線の批判を懸念したのか、政府は慌てて「令和」の意味を beautiful harmony と解説した。ちなみに、諸橋『大漢和辞典』を引けば、「令」は法律・みことのり・いましめ・命ずる・長官の意につづいて、ようやく「よい」の意味を見い出すことができるので、海外報道にもそれなりに根拠があるわけだ。
 しかし、いずれにせよ、これらは世間でのことどもである。つまり、それとはまた別に、宗教の論理というのもあるわけだ。そして、そこから物申せば、「令」が命ずる意味であっても、「せしめる、させる」という使役の意味であっても、何ら問題ではない。それというのも、世は人間中心というか人間至上の考えの下に運営されていて、人間の知性に不可能はないと思われている。たしかに人知は大きな光を見い出しているが、その一方で、私たちは、その光を呑みこむほどの影に怯えてもいる。しかも、そうした光と影を、人間の欲望をベースに調整しているので、そのかぎりにおいて、影が光を呑みこみつづけるのだ。
 つまり、そうした人間至上ではなく、むしろ「人間、この微細なるもの」という思いに徹し、さらには、人間を超えた何ものかを師表とし、その声に耳をそばだてようとする宗教の意味は、このさい限りなく大きいのではあるまいか。そうした立場からは、和せしむ意味の「令和」こそ、意義深いという他はない。もとより、その主語は神仏だ。そういう宗教っぽいのが苦手な向きには、人間を超えたサムシング・グレートといってもよい。

興福寺寺務老院 多川 俊映