興福寺について

貫首より

クローン猿の誕生

 今年は新年早々、中国の研究チームが猿のクローン二匹を誕生させたという衝撃的なニュースに驚愕した。 二匹のクローン猿の名は「中中(チョンチョン)」と「華華(ホワホワ)」だとか――。上野動物園で生まれたパンダの赤ちゃん「香香(シャンシャン)」はあどけなくてよいが、このクローン猿の誕生は素直に喜べない。というか、はっきりいって、この生命誕生にはある種の恐怖感を催す。
 かつてドリーと命名された羊のクローンがつくられた時も、私たちは大きな衝撃をうけたが、今回は、それどころではない。なにせ遺伝子レベルでヒトとさほど変わらない猿のクローンだ。生命科学といえども超えてはならないある種の線というか枠を、明確に超えたのではないかと思う。
 それというのも、親しくさせていただいていた科学者から生前、ヒトのクローンについて、――愛しい子を亡くした母親の煩悩がわが子のクローンを欲望する、いずれそうなるのではないか…。との独白を、直に聞いたことがあるからだ。むろん、欧米や日本で、ヒトへのクローン技術の応用が禁じられているにもかかわらず、である。
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 ちなみに、そうしたクローンの子を想像してみる――。クローンの子は、亡くなった子とまさに瓜二つ、寸分の狂いもない。が、それはいわば外形の話で、仮に同じように育てても内面まで瓜二つというわけにはいくまい。スガタ・カタチはそっくりでも、外部環境の影響も、実のわが子とクローンのわが子では微妙に異なるだろうし、子ども自身の問題意識の有無や濃淡もちがうだろうから、成長するにつれ、亡きわが子とクローンのわが子とでは、なにかと差異が生じてもこよう。そこに親として、あるいはいうにいわれぬ違和感が生ずるかもしれない。
 しかし、一度亡くしたわが子をクローン技術でともかくも取り戻したのだし、親の目の前にはそのわが子が実在するのだから、親はその子に愛情を注いて余念がない…。それはいいとして、しかし、それでは亡くなった子はどうなるのだろうか。
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 つまり、目の前に実在するクローンのわが子という圧倒的な存在感の下、亡くなったわが子を思う親の気持ちが薄れていきはしないか、ということだ。亡き子への供養の心といってもよい。そうしたきわめて人間的な気持ちはどうなるのか、という問題だ。もし親が亡くなったわが子を思う気持ちを希薄化すれば、幼くして亡くなった人は、――ワタシは、あなたにとってなんだったのですか。と、おそらく問うはずである。
 わが子を亡くすことは、いうまでもなく実に悲しいことだけれど、親として亡き子を一途に思いつづけるなかに、この世の生を終えた子の成就ということもあるだろうし、また、わが子を亡くした悲しみを背負って歩む人生の意義も見い出されてくるのではないか。そして、そうしたなかにこそ、いのちということ・生きるということの奥深さを実感するのではないかと思う。 いのちは再生できない――。そこにこそ、生の営みの本質があるのだと思う。

興福寺貫首 多川 俊映