興福寺について

興福寺をもっと知る

能(のう)の話

 興福寺では毎年春・秋の2回、能楽が奉納されています。よく知られるのが、5月の第3金・土曜日の両日に南大門の「般若の芝」で催行される『薪御能』で、日本全国のあまたある野外能の本家・本元とされるものです。


 そのはじまりは古く、貞観11年(869)に西金堂で行された修二会の法呪師と呼ばれる人々の神秘的祈祷所作に求められます。やがて、その役目は法呪師から猿楽呪師に委ねられ、後に観世の世阿弥陀金春の善竹を輩出した猿楽は高い芸術性を帯びながら、南北朝時代以降は能楽へと変遷していきました。 金春・金剛・宝生・観世の四座が一堂に会するのもこの薪御能ならではであり、興福寺衆徒による「舞台改めの儀」も今に伝えられています。


 また、秋の10月の第1土曜日には、ライトアップされた古都奈良のシンボル・五重塔のもと、東金堂前庭で「塔影能」が仏さまに奉納され、こちらも毎年各地から多くの方々にご参加をいただいております。


 古来より連綿と奉納されつづけてきた「薪御能」、秋の行事として定着した「塔影能」。ここでは人と神仏との境界が開かれ、皆様をきっと時空を超えた世界へと誘ってくれるでしょう。

お酒の話

 ここ奈良では神武天皇このかた酒が造られてきました。天平勝宝2年(750)2月孝謙天皇が唐人李元環に外従五位下を授けるため春日酒殿に行幸します。これが奈良で「酒」が史料として見られる最初のようです。その他に、春日祭神酒として白酒・黒酒および神主酒(一夜酒)が知られていますが、今の清酒とは違います。


 平安時代も末、神仏習合思想が浸透し、祭政一致が叫ばれるようになりました。大和国(奈良県)支配を目指す興福寺は、大和は春日の神国と認めるものの、国司を追払ってしまいました。そして、興福寺は春日の杜に若宮を創設し、春日の祭祀権を奪うことに成功し(保延元年1135)、名実ともに大和の支配者となりました。その後も、源氏に味方し、鎌倉時代になっても大和守護職としての役割を果たします。


 このころに「元興寺酒座(さかざ)」が記録されています。酒造販売の始まりのようです。春日若宮神人(じにん)で興福寺寄人(よりうど)の身分をもらった人が元興寺付近で営業を始めたもの。


 聖俗両界に絶大な勢力を築いた春日社興福寺。僧兵の親玉として知られる衆徒(しゅと)は、興福寺の御家人のようなもの。それぞれの領地を治め興福寺に年貢を収めます。倉庫となるような建造物は至る所にある。多くの米が集る。大寺には井戸や近くには川があって、大量の清浄な水が確保できる。 これだけ条件が揃えば、お酒を造れと言っているようなものです。やがて、興福寺配下の菩提山正暦寺や鳴川寺成身院、影響下の河内天野山金剛寺で僧坊酒が量産されるようになりました。


 お酒は仏教徒、特に出家者には飲酒戒として自制することが定められています。ところが、戒律の条文には酒造の事が記されているのです。もとより酒を遠離する事が目的で書かれているわけですが、日本では大らかで守戒全般がそれほど厳格ではなく、酒造りの格好の資料となったことでした。


 桃山時代に入ると、莫大な収入に目をつけた秀吉が、僧坊酒造りを禁止して独占しますが、奈良酒、天野酒の人気は世を席捲し、酒・清酒と言えば奈良でありました。秀吉が引き抜いた酒造りの職人達は、伏見、次に灘で技を磨いたといわれています。

宝蔵院流槍術の話

 宝蔵院流槍術は奈良が発祥の武道です。


 その流祖は覚禅房胤栄といい、奈良・興福寺子院の宝蔵院に住し、十文字鎌槍を活用した独自の槍術を創始して日本有数の槍術流派の基を築きました。


 慶長12(1607)年87歳で遷化しました。

興福寺と藤原氏

 710年、平城遷都の際に、藤原不比等(ふひと)が飛鳥にあった厩坂寺(うまやさかでら)を移築し、興福寺に改名。法相宗の大本山。


 藤原鎌足の病気平癒のため、夫人の鏡女王が京都山科の私邸に建立した山階寺(やましなでら)が厩坂寺の前身となるため、興福寺は山階寺→厩坂寺→興福寺と2度名前を変えています。


 藤原氏の氏寺として藤原氏の隆盛とともに寺勢を拡大し、奈良時代には4大寺、平安時代には7大寺の1つとして栄え、鎌倉、室町時代には大和の守護職的な勤めをするまでになっています。


 藤原氏の繁栄とともに寺領を拡大して、堂塔伽藍(どうとうがらん)が百数十棟、僧侶4,000人の多数にのぼったといわれています。

興福寺と災害

 興福寺は幾度の火災に見舞われたお寺ですが、その度に復興を繰り返し更に寺勢を拡大してきました。その中でも治承4年(1180年)、源平の争いの最中、平重衡の兵火による被害は甚大でありました(南都焼討)。 東大寺と共に大半の伽藍が焼失しました。その復興には興福寺に所属した運慶達の活躍によって、旧に倍する寺宝が造くられています。


 興福寺の現存するものには、この火災以後に復興されたものが多くあります。