興福寺について

興福寺の歴史

略史3

興福寺の仏教


興福寺創建伽藍(平城京復原模型)

 興福寺には法相(ほっそう)教学の寺院として法灯を護持してきた。その根本教義が「唯識(ゆいしき)」にあるので、古くは唯識衆(宗)、あるいは、法相唯識を宣揚した唐の慈恩(じおん)大師窺基(きき)(632〜82)の名をとって、慈恩宗・慈恩教とも呼ばれた。

 法相唯識の教義は、インドの無著(むじゃく)・世親(せしん)(五世紀頃)という唯識学派の大家によって大成された。玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)がインドから将来したおびただしいサンスクリット経典は、玄奘はじめ、その弟子たちによって漢訳されたが、慈恩大師は特に唯識を学問として体系づけたことによって、法相の宗祖として尊崇されてきた。慈恩大師は、もっぱら唯識の論疏著述を精力的に行い、法相教学を宣揚し、教学の流布に努めた。そのおびただしい論疏著述に対して「百本の疏主」と尊称された。

 慈恩大師の門下には州(ししゅう)大師慧沼(えしょう)(650〜714)があり、その門下から濮陽(ぼくよう)大師智周(ちしゅう)(668〜723)が出た。こうした中国の学匠たちの教義研鑚の果実が入唐したわが国の学問僧らによって伝えられた。すなわち、孝徳朝の道昭、斉明朝の智通、文武朝の智鳳、元正朝のの玄らが挙げられる。この中で玄は、在唐18年の長きにわたって勉学し、帰国後は聖武天皇から紫の袈裟を許されて僧正に任ぜられ、中央で重用された。その後玄ムは失脚するが、彼が入唐して師と仰いだのが智周であった。玄は、天平盛期における法相教学の興隆に大きな影響を与えたと考えられ、わが国の法相祖師の一人に列せられている。

 興福寺の代表的な法会として維摩会(ゆいまえ)があげられ、なおこれに御斎会(ごさいえ)・最勝会(さいしょうえ)を加えて三会と称される。この三会の講師を一人で勤めることを三会定一という。この講師になるには、維摩会の研学竪義(りゅうぎ)を修めなければならない。この竪義に至るまでに、さらに、方広会・法華会・慈恩会の竪義遂行が義務づけられた。これを「三得業(さんとくごう)」と称される。

 こうした伝統的な法会のなかで慈恩会が現在も重きをなしている。これは宗祖慈恩大師の偉業をたたえるとともに、法灯護持の念を顕示するものとして厳修されてきた。この法会は興福寺別当空晴(こうじょう)の発願によって天暦5年(951)に始まり、天禄元年(970)に庚申講(こうしんこう)と称されたが翌年から慈恩会となったとされる。これが、次第に隆盛し、今日まで永々と伝えられている。とくに現今では、法相僧侶の登竜門として格式を保ち、毎年11月13日(宗祖正忌日)に興福寺と薬師寺が会場を交代して厳修している。

平安時代の興福寺


南円堂(春日社寺曼荼羅図部分)

 奈良時代後期にほぼ完成した興福寺の伽藍は、弘仁4年(813)、当時藤原氏の実権を掌握した藤原冬嗣(ふゆつぐ)(北家)が南円堂を創建した。中心伽藍はこの仏殿の建立をもって完成し、その壮麗な大伽藍は官寺と比較しても遜色のない寺観を呈したのであった。平安時代の興福寺は藤原氏の勢力増大に伴い、その庇護によってますます発展した。

 神護景雲2年(768)、藤原氏によって創始された春日大社は、藤原氏の氏寺である興福寺とは創始当初から合体したのではない。しかし、興福寺は「春日大明神は法相擁護の神である」と唱えて天暦元年(974)に社頭での読経が始まり、神仏習合思想が進むにつれて、興福寺は春日社との一体を主張するに至った。そして、保延元年(1135)に春日若宮を創設し、以来興福寺による春日社支配が行なわれ、江戸末期まで神仏混淆の信仰形態が持続した。

 こうした興福寺と春日大社の合体化は、春日社の神威をかざしての神木動座・入洛強訴という手段に使われ、「山階道理」の言葉が生まれるほど廟堂を悩ませた。例えば、寛治7年(1093)の神木動座は、近江守高階為家に対するもので、近江の春日社領の神人が凌打された報復として為家の流罪を強要し、ついに土佐国に配流させた。この時「春日明神は興福寺を守護し、興福寺は春日明神を扶持す。寺と云い、社と云い、処一に代同じうす。社の愁は則ち寺の愁なり」と主張している。このような神木動座・入洛はおよそ70回にも及んだがこうした行動が後の平重衡の南都進攻を招いたともいえる。

興福寺の繁栄と罹災


春日大社本社・若宮社
(宝永五年・興福寺伽藍春日社境内絵図)

 興福寺は藤原氏と共に隆盛して寺の規模はより一層拡充された。寺僧の住居である子院が寺中寺外に建てられ、その数が増大していった。この子院の中で格が生じた。すなわち、公卿の子弟の入寺によって「院家」が成立して貴族化の色調を強めた。さらに皇族・摂関家から入寺した者が門跡となった。門跡は一乗院と大乗院で、一乗院は天禄元年(970)に定昭(じょうしょう)によって開設され、大乗院は応徳4年(1087)に隆禅が開いた。これが貴種相承となって江戸末期まで伝承された。

 興福寺はますます栄え、南都寺院勢力の代表的存在となっていった。しかし、その反面、たびたびの罹災と復興を繰り返したのも興福寺の歴史であるといえる。

 興福寺は元慶2年(878)に最初の回禄を経験し、以後、延長3年(925)、寛仁元年(1017)、永承元年(1046)・同4年、康平3年(1060)、嘉保3年(1096)と立て続けに大小の火災にあったが、なかでも、最大規模として記録されるのが治承4年(1180)12月28日の大火である。この火災は平清盛がわが子重衡(しげひら)に南都進攻を下知し、南下した軍勢と南都勢の合戦から起こったもので、興福寺や東大寺が炎上した。特に興福寺が全山焼亡に等しいまでに延焼したことは、九条(藤原)兼実(かねざね)の『玉葉(ぎょくよう)』に詳しい。