興福寺について

興福寺の伽藍

西金堂(さいこんどう)

光明皇后が、亡母橘三千代の冥福を願って造立
 興福寺の創建者藤原不比等(ふひと)の娘光明(こうみょう)皇后が、亡母橘三千代の冥福を願って、天平6年(734)にお建てになりました。堂内には本尊釈迦如来(しゃかにょらい)像、薬王(やくおう)・薬上菩薩(やくじょうぼさつ)像、梵天(ぼんてん)・帝釈天(たいしゃくてん)像、十大弟子(じゅうだいでし)像、八部衆(はちぶしゅう)像、金剛力士(こんごうりきし)像、四天王(してんのう)像などが安置されていました。
 規模は、現存する東金堂とほぼ同じで正面7間(約26m)、側面4間(約14m)、寄棟(よせむね)造りであったと考えられます。
 平安時代に2回、鎌倉時代に1回被災し、その都度再建されましたが、江戸時代の享保2年(1717)正月4日に、講堂からの出火によって中金堂(ちゅうこんどう)や南円堂(なんえんどう)と共に被災します。しかし資金難のために再建がかなわず、基壇(きだん)を残すに過ぎません。
 幸いなことに創建時の阿修羅(あしゅら)像など八部衆像や十大弟子像、また法具である華原磬(かげんけい)(いずれも国宝)、さらに鎌倉時代の釈迦如来像の頭や手、光背の一部、また薬王・薬上菩薩像(いずれも重要文化財)などが伝えられます。

中金堂(ちゅうこんどう)(復元予定)

興福寺伽藍の中心になる最も重要な建物
 中金堂は興福寺伽藍の中心になる最も重要な建物で、寺伝では創建者を日本の律令制度をまとめ、栄光の藤原氏の基礎を築いた藤原不比等(ふひと)に置く。
 旧中金堂は寄棟造、桁行7間・梁行4間、屋根は2重で下の屋根は裳階(もこし)がつき、規模は当時の奈良朝寺院の中でも第1級だった。丈六釈迦如来像を中心に、薬王(やくおう)・薬上菩薩(やくじょうぼさつ)像と2体の11面観音菩薩像の4体を脇侍(わきじ)に従え、四天王像、さらに養老5年(721)に橘三千代が夫不比等の1周忌に造立した弥勒浄土像も安置されていた。
 6回の焼失・再建の後享保2年(1717)に焼失し、約100年後の文政2年(1819)に仮堂として再建された。近年老朽化が進んだため、北の講堂跡に仮金堂(旧薬師寺金堂室町時代後期寄棟造桁行9間梁行6間本瓦葺)が移建された。中金堂が復興されるまで、興福寺の金堂としての役目を持つ。現在、解体が終了し、天平様式の建物を復元する予定となっている。